十字架を負う
政所 邦明 牧師
マルコによる福音書 第8章34節-第9章1節
主題聖句:「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」
マルコ福音書第8章35節
主イエス様は言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34節) 従う意志のある相手にだけ声をかけられるのです。したがって「自分の十字架」とは自ら進んで選び取るものです。自分の思いと関係なく、強制的に負わせられるものではありません。ともすれば、“自分は生まれつき体が弱い”とか、“天災や不慮の事故に巻き込まれた”などを自分の十字架だと考えたくなります。しかし、それらは、その人の責任ではなく、意志と無関係に負わせられた苦しみです。自分の力ではどうにもならないものを引き受けなさいと主イエス様は言われるはずがありません。
「自分の十字架」とは神様のために進んで背負うものです。苦しみ自体をことさらに美化してはいないでしょう。信仰生活は喜びであるはずです。
しかし、滅びに向かう人間を愛し、父なる神様は独り子イエス・キリスト様を送ってくださいました。わたしたちを救うために主イエス様は、十字架の死を選びとってくださったのです。この父である神様と御子イエス・キリスト様を愛するからこそ、キリスト者は十字架を進んで選び取るのです。誰でも愛する者のために犠牲を払ったり、辛さを引き受けたりします。その場合と違いはありません。救われ、命を与えられた者として苦しみを担います。その際も、主イエス様にどこまでもついて行くことが前提とされます。一人で歩くのではなく、先立って十字架を取られた方がおられるのです。その御方の背中を見つめながらついてゆくのです。