キリストが見える
政所 邦明 牧師
マルコによる福音書 第8章22-30節
主題聖句:「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」
マルコ福音書8章25節
この箇所のすぐ前で「…悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか」(8章18節)と主イエスは弟子たちに理解を求められました。弟子たちの姿との比較で、ベトサイダにおいて盲人がいやされ、見えるようになります。この奇跡と弟子たちの姿は無関係ではありません。この後の8章29節において、「イエス様はメシアだ」とペトロが告白する出来事に繋がってゆきます。病のために視る力を持たなかった人が視力を回復してゆく、…ここは、単にそれだけの話ではありません。信仰の目をもって、主イエス様をどう見るかが問題なのです。
人から教わらなくても、生まれながらに他人の粗捜しをする能力を私たちは身につけています。その代わり、自分の本当の姿をあるがままに見ようとはしません。自分の欠点には目をつぶるのです。それなのに、「自分は見るべきものをちゃんと見ている」と言いはります。…見えていないのに、見えているつもりでいる。…だから余計に始末が悪いのです。
「愛はすべての咎を覆う」と聖書にあります。他人の悪を忘れれば良いのに、それができません。見なくても良いものに目を凝らし、見なければならない事柄から目を背けます。「神様!わたしは悟りの悪い、物事が見えない者です」と素直に認め、「導いてください」と助けを求めれば、その一点から始められます。神様のお力によって、目が開かれてゆくのです。イエス様が、私たちの信仰の眼を開いてくださいます。この御方が目を開いてくださる時、メシアであるイエス様の姿が見えてくるのです。