主イエスに触れる
政所 邦明 牧師
マルコによる福音書 第6章53-56節
主題聖句:「病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。」
マルコによる福音書 第6章56節
ゲネサレトという地名の所に主イエスの一行が着くと、それを知った人々の行動は激しいものでした。イエス様がおられる所なら、何処へでも病気の人を運んだと言います。この人たちは〝ご利益〟だけを求めたと非難できません。悩み苦しむ人を主イエスは待っておられたのです。病人にご自分の服を触らせ、癒しの力が出てゆくのを拒まれませんでした。
主イエスの所に行けば、神がおられる、神の力によって強められ、慰められると信じたからこそ、追いかけ回すように、居所を突き止め、病人を床に乗せて運んだのです。わたしたちは果たして、イエス様のところへ連れてゆくのに、これだけの情熱を傾けられるでしょうか。
「病人に、せめてイエス様の衣の裾にでも触らせてあげてください」と人々は願いました。それは肌に触れるのは恐れ多い、服の、しかも端っこで構わないと遠慮したのでしょうか。ところが民数記第15章37節以下には、衣服の4隅に房を縫いつけなさいと命令されています。それはイスラエルの民が神に属する人々であることを思い起こすためなのです。
主の力によって癒やしが起こります。奇跡と言ってよいでしょう。しかし、病状の改善、回復などその人の〝得〟や利益が大事なのでしょうか。民数記のその箇所で神は「わたしはイスラエルをエジプトから救い出した主だ」と宣言されました。神との深いつながりができて奇跡は始めて奇跡としての意味を持ちます。病気の人が衣の裾に信仰をもって触る時、イエス様は癒やすだけではなく、救いをお与えになる方だとわかったのです。