「神のこと・人間のこと」
船本 弘毅 師
マタイによる福音書 第16章13-28節
主題聖句:「 それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか 」
マタイによる福音書 第16章15節
イエスの公生涯は、あまり長くはありませんでした。前半の「ガリラヤの春」と呼ばれる時期と後半の「十字架への道」を分けるのが、今日のテキストであるフィリポ・カイサリアの出来事です。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と問われた主は、さらに弟子たちに向き直って、「それでは、あなたがたは」と問われました。ブーバーは神を信じるということは三人称で語りうることではなく、二人称で向き合う時に成立すると語っています。
ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。そしてまさにこの時からイエスは受難の予告を語り始められました。「そんなことがあってはなりません」といさめ始めたペトロを、主は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と叱責されました。
「メシア告白」の直後に「受難の予告」がなされたのは、イエスは救い主として、否、救主であるがゆえに、十字架にかかられたことを示しています。そこに人間の思いを超える神の思いがあります。ボンヘッファーは、「神の恵みは、独り子を十字架につけるという高価な価を払って実現された。神の犠牲を伴なう高価な恵みを、わたしたちは安価な恵みとして受けとめていないか」と問いかけています。
敗戦70年という節目の年は、ISのテロ事件で始まり、多くの自然災害が続き、平和が脅かされている危険を感じさせられています。この時代をわたしたちは、どう生きようとしているのでしょうか。「わたしを誰と言うのか」という主の問いを聞きつつ、キリストなしには生きられないキリスト者として生き続けたいものです。