神が共にいて下さる
政所 邦明 牧師
マタイによる福音書 第1章18-25節
主題聖句:「…『その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神はわれわれと共におられる』という意味である。…」
マタイによる福音書第1章23節
「神がわたしたちと一緒にいてくださる。」…この約束に対して、私はためらいなく、心丈夫で、喜ばしいものと考えておりました。しかし、一度立ち止まって考えてみます。はたしてそうとばかり言えるでしょうか。
皆様にも師匠と言えるような人がおられると思います。一面、師に憧れ、尊敬し、手ほどきを受けることを喜びます。その半面、その方の前に出ると緊張し、背筋がピッと伸びることはないでしょうか?あまりにも偉い先生なので、気後れし、窮屈さを感じるのです。研修会によく招かれる有名な牧師がおられます。講演会場は満杯、しかし、食事の時間は、広いテーブルに一人で、ぽつんと食べておられます。周りの座席はガラガラで、「みんな僕のことを煙たがって近寄ってこないのだよ…」とその先生は寂しそうでした。
礼拝では神の前に出るのです。尊敬とうやうやしさを持つはずです。今わたしたちが行なっている礼拝が「楽しく、気安い」ものにしかすぎないとしたら、問題でしょう。神に対して〝馴れ馴れしすぎる〟からです。
“神が共におられる”のなら…神の前に襟を正すことになります。その際に、神の前に自分の醜い姿が浮かびあがってくるでしょう。裁きの恐ろしさに打ち震えます。クリスマスを〝祝い〟〝喜び〟の時とだけしか考えないなら、“神が共におられる”ことの意味を十分に理解しているとは言えません。しかし、教会の歴史において待降節は、3月、4月の受難節よりも、もっと〝悔い改め〟を重要視しました。…自分の罪を悔い改めて神のもとに立ち返る。…それが“神が共におられる”ことの本当の意味だと思ったからです。