神の選び
政所 邦明 牧師
サムエル記上 第16章1-13節
使徒言行録 第10章24-43節
主題聖句:「いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。…」
サムエル記上 第16章3節
「神ご自身が“神の民イスラエル”を王として支配なさる」…これがイスラエル民族の原則です。サムソンやギデオンなど“士師”の活躍する時代もありました。しかし、外国の侵攻から身を守り、国内の安定を維持するため、“王制”を導入するように民は、サムエルに迫ります。民の要求に応える形で“王制”が敷かれたように見えます。しかし、民の願いを神が許可されたというより、神が王を立てることを望まれたのです。(サムエル記上8:9)
初代のサウル王は神に捨てられます。神を畏れず、職権を乱用し、私腹を肥やしたからです。次の王を準備させるために、神はサムエルをエッサイのもとに遣わされます。いけにえをささげて、礼拝をするためです。
王サウルは、位にしがみつこうとしています。サムエルの動きに目を光らせます。「いけにえをささげる」はサウルを欺く単なる口実、見せかけでしょうか。そうではありません。神によって王は立てられるのです。礼拝の場こそ、王がその職に任命されるのにふさわしいのではないでしょうか。
支配者となることは重い責任が生じます。どれほど優れた能力を持つ人であっても、全身全霊を傾けて責務が果たせるかどうかでしょう。王の仕事をやすやすとこなせる人などだれもいません。犠牲を伴うのです。
「礼拝」とは「わたしたちのからだを神にささげること」です。(ローマ書12:1)王の役得で甘い汁を吸うどころか、神の支配をもたらすために苦労の連続を、少年ダビデは送ることになります。礼拝から送り出されて、神のために用いられることを、この少年は次第に学び取ってゆくのです。