召命に応えて立つ時
政所 邦明牧師
イザヤ書 第55章6-13節
マルコによる福音書 第1章16-20節
主題聖句:「イエスは『わたしについて来なさい。…』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」
マルコによる福音書第1章17、18節
ガリラヤ湖の岸辺において、ふたりの漁師シモンとアンデレとに「わたしについて来なさい」と主イエスは声をかけられます。二人は“すぐに”従いました。“すぐに”ということから「信仰とは何か」を考えさせられます。
“すぐに”とは二人には何の準備もなかったということでしょう。主イエスの後に従っていく時、仕事着のままで、まだ足は濡れ、雫が垂れていたかもしれません。何も持たないのです。まじめに働いてきた経験も誇りも知識も、主イエスが人間の救いのために準備なさったことに比べれば、何も役に立たちません。持っているものをかなぐり捨て、ただひたすらに主イエスの後にくっついてゆく、それが信仰なのです。
神の子と呼ばれるにふさわしく内実が整い、合格点が出せるようになったら、信仰を持ったことになると考える人は多いでしょう。こちらの教会では初めて来た人にいきなり洗礼を勧めることはありません。受洗準備の期間のあることは確かです。しかし、時間の長さの問題でしょうか?長く通っておられても決心がつかないと言われる方もおられます。「自分のような未熟な者が信者になれば、神様にも、教会にも申し訳なくて…」とお考えになるようです。それではどの基準に達すれば「もう十分準備ができた」と言えるのでしょうか。いつまで待っても同じことではありませんか。“信仰の本質”は極めて単純明快です。「ついて来なさい」と命じられる主のお言葉に“すぐに”従うことだけなのです。こちら側に呼びかけていただく値打ちも資格もありません。呼びかけてくださる主にすべてがかかっているのです。