2014年2月2日 礼拝説教要旨

召命に応えて立つ時

 

政所 邦明牧師

 

イザヤ書 第55章6-13節

マルコによる福音書 第1章16-20節

主題聖句:「イエスは『わたしについて来なさい。…』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」

マルコによる福音書第1章17、18節

ガリラヤ湖の岸辺において、ふたりの漁師シモンとアンデレとに「わたしについて来なさい」と主イエスは声をかけられます。二人は“すぐに”従いました。“すぐに”ということから「信仰とは何か」を考えさせられます。

 

“すぐに”とは二人には何の準備もなかったということでしょう。主イエスの後に従っていく時、仕事着のままで、まだ足は濡れ、雫が垂れていたかもしれません。何も持たないのです。まじめに働いてきた経験も誇りも知識も、主イエスが人間の救いのために準備なさったことに比べれば、何も役に立たちません。持っているものをかなぐり捨て、ただひたすらに主イエスの後にくっついてゆく、それが信仰なのです。

 

神の子と呼ばれるにふさわしく内実が整い、合格点が出せるようになったら、信仰を持ったことになると考える人は多いでしょう。こちらの教会では初めて来た人にいきなり洗礼を勧めることはありません。受洗準備の期間のあることは確かです。しかし、時間の長さの問題でしょうか?長く通っておられても決心がつかないと言われる方もおられます。「自分のような未熟な者が信者になれば、神様にも、教会にも申し訳なくて…」とお考えになるようです。それではどの基準に達すれば「もう十分準備ができた」と言えるのでしょうか。いつまで待っても同じことではありませんか。“信仰の本質”は極めて単純明快です。「ついて来なさい」と命じられる主のお言葉に“すぐに”従うことだけなのです。こちら側に呼びかけていただく値打ちも資格もありません。呼びかけてくださる主にすべてがかかっているのです。

2014年1月19日 礼拝説教要旨

試みを受けられる主イエス

 

政所 邦明牧師

 

詩編 第91編1-16節

マルコによる福音書 第1章12-13節

 

主題聖句:「…サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」      

 マルコによる福音書第1章13節 

洗礼を受けられ、聖霊が鳩のように主に降られた後に、その聖霊は主イエスを荒野に送り出されます。「送り出す」は「外に投げ出す」、つまり「叩き出した」くらいの強い意味を含むことばです。聖霊はひどい“仕打ち”を主にされたのでしょうか?

 

信仰生活を送る時、身の回りに困難な出来事が起こってきます。たとえそれを神が望んでおられるとわかったとしても、必ずしも好ましいと思いません。おそらく私たちが自己中心で、神の深い配慮を理解できないからです。遭遇する困難は試練とも言えます。その試練の中に神がわたしたちを押し出されます。主イエスは公の生涯に入られる前に、わたしたちに先駆けて試練を受けてくださいました。その事自体、慰めではないでしょうか。「罪は犯されなかったが、あらゆる点で、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ人への手紙第4章15節)とある通りです。

 

荒野には“野獣”がいます。うっかりすれば、野獣に命を奪い取られるかも知れません。緊張を強いられます。人と擦れ合い、疲れを感じる私たちの日常生活とあまり変わりません。その中を主イエスは通られます。その時に天使も主に仕えていました。「聖霊が荒れ野に放り出した」と聞くと、ひどいことをなさると思います。しかし、「わたしの愛する子」と呼びかけられる父はその言葉を裏切り、放り出しておしまいにはなりません。…“野獣”が主と一緒にいても天使も又、いる。…試練と同時に守りも与えられる神のご真実を、この荒野の誘惑からわたしたちは知ることができるのです。