2016年12月11日 礼拝説教要旨

 主の道を備えよ

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第1章5-25節

主題聖句:「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」                       ルカによる福音書第117

 

今日は、間もなくおいでになる救い主に先立って、救い主を迎えるための心備えをした洗礼者ヨハネの誕生とその働きについて学びます。

 

時は、ユダヤの王ヘロデ(紀元前37年~紀元前4年の在位)の時代です。ユダヤでザカリアという祭司が、主の聖所の中で香をたいていたとき、天使が現れて、年老いたザカリア夫婦に男の子ヨハネが生れること、そのヨハネが、人々を神である主のもとに立ち帰らせる役目をすると告げたのです。

 

そのヨハネは、人々が救い主を迎えることができるように、準備の出来た民を用意するのです。「父の心を子に向けさせ」るのです。すなわち、父親がしっかりと子どもに自分の心を向けて、父親の愛の思いを子に表すように、ヨハネが働きかけるというのです。親が子を愛し、受け入れるように働きかけるというのです。「逆らう者に正しい人の分別を持たせ」るのです。「逆らう者」とは、すべての人間の姿です。私たちは神によって創造され生かされているのですが、神をよく知りません。神を意識せず、自分勝手にわがままに生きてきました。そんな私たちが正しい人の分別を持たなければなりません。何が神に喜ばれるのか、神のみ思いを知らなければなりません。人々が神に心を向け、神を知り、神を信じたいと思うように、していく役目をヨハネがするのです。事実、ヨハネは神に立ち帰るように勧めました。

 

それほどに神様ご自身が、私たちを整えて導こうとしてくださるのです。

2016年12月4日 礼拝説教要旨

 贖う者が来られる

三好 晴夫 牧師

イザヤ書 第59章12-20節

主題聖句:「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると/主は言われる。」        イザヤ書第5920

                               

私たちはこんなに頑張っているのに、どうして神からの祝福が自分にないのか。こんなに祈っているのに、神は聞いて答えてくださらないのか。このような問いを私たちがすることがあります。そういう時、まさか、自分に問題があるとは、全く考えていないのはないでしょうか。

 

しかし、預言者イザヤは、59章1,2節で、お前たちが祝福されていないのは、神に能力がないからではなく、神とお前たちとの間にある罪が隔てとなって、神の御顔を隠させて、祈りが届いていないのだというのです。

 

ですから、私たちの中にある罪、すなわち、神に背き、神を信じない思いが神と私たちとの間を隔てているというのです。

 

今の私たちもそうですが、預言者イザヤの時代にも、人々は隣人へ暴力を振るったり、圧力で人々を押さえつける政治を行ったりしていたのです。偽りを平気で語って悪事をつぶやいていた。真実をもって弁護する者もない、ひどい状態でした。光もなく、暗黒の中を歩いているような状態でした。今の私たちの住む世界も、権力者の思うがままに政治が行われ、弱い立場の権利が踏みにじられて、正義がなくなって、信頼も誠実も壊れています。

 

この状態を神様はどうご覧になっているでしょうか。主はその状態に驚かれ、御自分の御腕によって救いの業を行われるのです。主は正義の神として、人の業に従って報いをなさいます。同時に、主は人々を罪から贖う者でもあられます。このような主こそ私たちの主である、と預言者が示しています。

 

2016年11月27日 礼拝説教要旨

 主の救いの希望

三好 晴夫 牧師

イザヤ書 第2章1-5節

ローマの信徒への手紙 第13章11-14節

主題聖句:「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい。」

                                イザヤ書第22

 

 

私たちの住む現実世界は、様々な危険や脅威に取り囲まれていて、不安と恐れがあります。そういう中で、私たちはすべてを支配しておられる神様を信じて過ごしています。神様を信じるということは、その厳しい現実を、神様がどう見ておられ、神様がどのような約束を私たちに与えておられるか、その約束を信じることです。「今がどんな時であるか」(ローマ13:11)。私たちとしては厳しい現実であっても、今が、神様が与えている特別の時であると覚えることです。厳しい現実の中にも、神様の与えられる約束に、希望を持って生きるべきなのです。

 

今日の箇所イザヤ書2:2~5には、「終わりの日」すなわち、夜の終わりの時に、エルサレムは偉大さを表すとある。その偉大さとは、神様の臨在と教えの偉大さです。それゆえ、国々の人々がそこに教えを求めて集まるというのです。その教えに基づいてすべてが正しく裁かれます。その教えに基づいて平和が起こるのです。ですから、預言者イザヤは、神様の教えの光の中を歩もうと呼びかけています。しかし、当時の人々はイザヤの伝えた言葉に耳を傾けず、悔い改めず、神の裁きを受けて、国が滅び、苦難を味わいました。

 

そういう中でも、イザヤの語った、神の救いの約束が、主イエス・キリストの来臨と十字架と復活の御業によって実現しています。主イエスを信じる者に赦しといのちが与えられるのです。主イエスの救いこそ、希望です。

                                       

2016年11月20日 礼拝説教要旨

 

 父親の信仰

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第9章14章1-14節

主題聖句:「その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けくだい。』」            

 マルコによる福音書第924

                                       

 

 私たちは、より確かな真実を求めようとするからでしょうか。簡単には信じない、疑う事が当たり前の世界に生きています。そういう世界の中で、目に見えない神様の存在、神様のなさる御業を信じることが難しいのです。

 

今日の聖書箇所に登場する、霊に取りつかれて苦しむ息子を持つ父親も、信じることができない状態にありました。それは、息子の病気の症状があまりにも重くて、どうにも助ける事ができずにいたし、主イエスの弟子たちに助けを求めたが、できなかったからでした。

この父親が主イエスに尋ねられて、自分の息子の窮状を説明したあと、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」とお願いしました。

 

自分の息子のことを主イエスにお願いしても、無理だろうという思いがありました。でも、もう一方で、息子を救ってもらいたいという切実な思いがあったので、父親は正直な心を持ってお願いしたのです。これは、信じているのではなく、信じてはいないけれど、もし何か起こればありがたいというほどの願いでした。

 

すると、主イエスは、この父親をたしなめられました。「『できれば』と言うのか。信じる者には、何でもできる。」これは、全能の御力を持っておられる救い主イエスの言葉です。父親は、へりくだった態度で語っていましたが、主イエスが助けて下さるとは信じ切れていませんでした。信じる者には、何でもできる。救い主によって強くされるのだ、信じて願えと言われたのです。

 

そう言われて、父親は、自分の信仰のない事に気づき、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と求めたのです。その願いが聞かれるのです。

 

2016年11月13日 礼拝説教要旨

 栄光に輝くキリスト

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第9章2-8節

主題聖句:「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け。』」      

マルコによる福音書第97

                                       

 主イエスが3人の弟子たちを連れて、祈るために高い山に上られた時のことです。主イエスが祈っておられるうちに、彼ら3人の前で、主イエスの姿が変わったのです。服が真っ白に輝きました。この姿は、主イエスが、地上に人間としてお生まれになる前に、父なる神と共におられたときの栄光の姿です。神の御子の栄光の姿を、今現されたのです。

 

その時、モーセとエリヤが現れて、主イエスと語り合いました。そのことは、ルカ福音書9章31節には、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられた最期について話していた」とあります。最期とは、主イエスが十字架に処刑され、人類の救いを成し遂げられることです。旧約聖書を代表するモーセとエリヤが、キリストの苦難、死、復活を認められたのです。

 

その時、雲が現れて、彼らを覆い、雲の中から声がしました。それは父なる神の声でした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と言われたのです。6日前に主イエスが弟子たちに教え始められた、苦難の道、メシアとして、多くの苦難を受け、殺されて、三日後に復活するという、神の救いの御心を成し遂げられるこの御子イエスを、神が受け入れられたことを示す宣言でした。神は御子イエスを深く愛しておられ、苦難に進むことを認められた。

 

「これに聞け」。このイエスが語る言葉に聞き従いなさいと言われたのです。十字架で苦しまれ、救いを成し遂げられるこのイエスに聞きなさいと。

 

その後、栄光の雲が消え、モーセもエリヤもいなくなりました。しかし、イエスが彼らと一緒におられました。先ほどまで一瞬でしたが、栄光に輝いた主イエスが彼らと共におられます。今も今後も共にいてくださいます。

2016年11月6日 礼拝説教要旨

 あなたはメシア

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第8章27-33節

主題聖句:「そこでイエスがお尋ねになった。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです。』」

                    マルコによる福音書第829

                   

 

 主イエスが弟子たちに問われた「あなたは、わたしを何者だというのか」という問いは、とても大切な問いです。聖書を読む人に向かって、イエスは何者かと問うています。

 

主イエスがこの問いを弟子たちに発せられた理由は、弟子たちが主イエスと一緒に過ごす生活において、みそばで主イエスの教えを聞き、主イエスのなさった御業を見て、悟るべきことを悟り、受け取るべきことを受け取っていたかを確かめるためでした。

 

その問いに対して、弟子たちを代表してペトロが「あなたはメシアです。」

と答えました。「メシア」という言葉はヘブライ語で「油注がれた者」という意味であり、ギリシャ語で「キリスト」です。神の恵みによって選ばれた救い主という意味です。このメシア(来るべき救い主)が人々を救うために来られるのを人々は待っていました。ペトロは、この来るべきメシアはあなたです、とイエスに告白したのです。ペトロは、主イエスと一緒に生活する中で、このことを深く経験して告白したのです。

 

この告白のあと、主イエスは、ご自分のことを誰にも話さないように戒められました。それは、まだ時期ではなく、イエスがどのような救い主であるのかということがまだ示されていなかったからです。十字架と復活がまだであったからです。その後、イエスは、私たちの罪のために十字架にかかられ贖いの御業を成し遂げられ、まことの救い主であることを現わされました。今こそ、イエスはメシアです、と信頼を込めて告白しましょう。

2016年10月30日 礼拝説教要旨

 はっきり見える

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第8章22-26節

主題聖句:「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」

                   マルコによる福音書第825

                   

 

 私たちは、霊的に盲目な状態にあります。そんな私たちの霊的な目が開かれ、見えるようになるように、イエスご自身がメシア(救い主)と分かるように、主イエスは導かれるお方です。そのことを、主イエスは、今日の箇所で、一人の盲人が、主イエスの御業にあずかって、目が開かれ、はっきり見えるようになった出来事を通して、示しておられます。

 

この盲人と主イエスが出会う前、主イエスと弟子たちは舟の中でした。その時、弟子たちはパン一つしか持って来なかったことを気にしていました。でも主イエスはそれを気にしておられるではなく、不信仰にならないように、今ここにすべてを与える主イエスがいることを悟ってほしかったのです。でも、このとき、弟子たちは悟っていなかったのです。

 

そんな彼ら弟子たちが、主イエスが救い主であることを正しく理解できるように、盲人の目を癒される御業をお見せになったのです。

 

主イエスと弟子たちがベトサイダに着いた時、人々が一人の盲人をみもとに連れて来て、触れていただきたいとお願いしました。すると、主イエスはその盲人を深く憐れみ、その盲人の手を取って、村の外に連れ出されました。そこで、その人をしっかりと見つめられ、彼の両目に唾をつけ、ご自身の両手を置かれました。彼の反応を確かめながら、御業をなさり、はっきり見えるようになりました。この御業を間近で見た弟子たちも、このようになさる方が誰なのか、よりはっきりと分かるように導かれました。この方が、救い主と正しく理解できるように導かれたのです。主が触れて導かれたのです。

2016年10月23日 礼拝説教要旨

 開 け

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第7章31-37節

主題聖句:「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、「開け」という意味である。」

                   マルコによる福音書第734

                   

 

  今日、耳が聞こえず舌の回らない人と、主イエスとの出会いを見つめます。主イエスがガリラヤに戻って来られたとき、人々は、耳の聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるように願いました。その人々は、困って苦しんでいるその人を何とか助けたいと思い、主イエスにお願いすれば、何かしていただけるのではないかと思ったのです。

 

すると、主イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、指を彼の両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。主イエスは、その人の苦しみを、ご自分の身体にくっつけるように触ってくださったのです。そして、「天を仰いで」すなわち、天の父なる神様を見上げて、天からの力を願う祈りをされたのです。「深く息をつき」すなわち、呻かれたのです。主イエスは、ご自分を、耳が聞こえない人の立場に身を置かれ、その苦しみを自らの苦しみとして呻かれたのです。このことは、主イエスは、この人の癒しを行うのに、抱える困難と激しく闘って全力を投入して成し遂げられたことを示しています。

 

そして主イエスは「その人に向かって、『エッファッタ』と言われた。これは、『開け』という意味である」。すると、彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになったのです。

 

この出来事を知った人々は驚き、神を賛美しました。それは、預言者イザヤの預言である「聞こえない人の耳が開く、口のきけなかった人が喜び歌う」ことが、その通り、この主イエスにおいて、実現したからです。

2016年10月16日 礼拝説教要旨

 

 安心しなさい。わたしだ。

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第14章22-33節

主題聖句:「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」                  

  マタイによる福音書第1427

                   

 

  自分としてはひたすら努力しているのに、前に進まずどうにもできない事態に出くわすことがあるのではないでしょうか。今読みます聖書の箇所の弟子たちも、自分の力ではどうにもできない状況に出くわしたのです。それをどう乗り越えたのか、どう助けられたのかを見ていきたい。

 

弟子たちは、主イエスに強いられて、自分たちだけで舟に乗って向こう岸に向かうように指示され、ガリラヤ湖を渡り始めていました。主イエスは一人になって山で祈りの時を持たれていました。そんな時、突然、逆風が襲ってきて、舟は前に進めなくなり、強風に吹き戻される状態になりました。

 

そんな状態が夜明け前(午前3時ごろ)まで続きました。弟子たちはどんな気持ちで、何とかしようともがき苦しんでいたのでしょうか。そんな時に、何かわからないのですが、白い物体が自分たちの方に近づいてきたのです。それは湖の上を歩いてどんどん近づいてきます。彼らはそれを恐怖と感じ、思わず幽霊だと叫びました。まさにその時、白い物体から力強い声がかかりました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 

声の主は、自分たちを導いてくださっているあの主イエスその方でした。主イエスが、自分たちを助けるために来て下さったのです。「わたしだ」と言われた主イエスが、共にいてくださるのです。そうと分かって恐れから安心に変わりました。私たちの人生にも、前に進めなく行き詰まりを覚えて、もがき苦しむことがあります。そんな時、弟子たちと同じように、恐れや不安と不信仰に陥ってしまうかもしれません。そういう私たちに、主イエスは近づいてくださり、安心しなさい、わたしが共にいると呼びかけて下さいます。

2016年10月9日 礼拝説教要旨

 いのちを養われる主

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第6章30-44節

主題聖句:「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。」   

    マルコによる福音書第641 42

                   

   今日の箇所には、男だけで5千人の人々が、五つのパンと二匹の魚によって、満腹になったという奇跡が記されています。このパンの奇跡は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのどの福音書にも記されているということは、弟子たちにとってよほど忘れがたい出来事であったということです。

 

主イエスと弟子たちが舟から陸に上がろうとした時、目の前に大勢の群衆が主イエスのところに集まって来ました。その姿を見た主イエスは、彼らが、飼い主のいない羊のように、それまで自分たちを導いていた指導者を失って悩んでいることを知って、深く憐れまれ、彼らに、色々と教えられました。

 

もう時間もだいぶ経っていった時、弟子たちは、このままなら人々が食べるものが必要となると思い、主イエスに、解散させて、自分たちで食べる物を買いに行くように命じてくださいと進言しました。ところが、主イエスは、弟子たちに、あなたがたが、彼らに食べるのを与えなさいと言われたのです。弟子たちは、自分たちにはそんなことはできないと思いました。そこで、主イエスは、弟子たちに、パンがいくらあるか、見て来なさいと命じ、彼らは確認して回ったところ、パン5つ、魚2匹とわかりました。弟子たちはこんなわずかなものなら、とても人々には足らないと思いました。

 

しかし、主イエスは自ら弟子たちに指示を与えて、人々に座らせ、そのパンを受け取って天を仰いで祈り、パンを裂いて弟子たちに渡して配られると、皆食べて満腹したのです。この出来事は、主イエスこそ、人々のいのちを養われるお方であることを示しました。主イエスは私たちをも養われる。