2023年8月6日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.32  あなたの罪は赦される

イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。

              マタイによる福音書 第9章2節

 

  人生には苦しみがつきものです。その苦しみの原因は直接には様々色々でしょうが、その根本的な原因は、人間の罪にあります。聖書は、最初の人間が罪に陥ってから、その罪の結果として人類に苦しみがあると教えています。

今日の箇所の出来事は、主イエスがガダラ人の地から湖を渡り、カファルナウムの町に帰って来られてから起こった出来事です。これと同じ出来事がマルコ、ルカにも記されていますので、他の福音書の助けを借りながら学びたいと思います。

主イエスはカファルナウムのある家で教えていました。そこには多くの人々が教えを聞こうと集まっていて家は入口まで一杯でした。そこに数人の人によって一人の中風の病人が運ばれて来ました。ところが、戸口まで一杯の人々だったのですが、彼らはあきらめずその家の屋根をはがして天井から病人を釣り降ろし主イエスの前に連れて行きました。そのなりふり構わぬ熱心さを、主イエスはご覧になり、彼らの信仰と認められました。彼らの信仰の中には中風の人の信仰も入っていたのを主イエスは見抜かれ、言われました。「あなたの罪は赦される」と。こう言われたのは主イエスが罪を赦すことのできるお方だからです。

2023年7月30日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.31  悪霊を追い出すキリスト

突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」      

              マタイによる福音書 第8章29節

 

  今日の箇所は、神の御子イエスは目に見えない霊の世界をも支配しておられるお方であることを示しています。

主イエスと弟子たちが共に舟でガリラヤ湖の向こう岸に向かい、途中嵐が襲いましたが、主イエスが静められ、ガダラ人の地方に着きました。すると、悪霊に取りつかれていた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来たのです。彼らは異常でした。非常に狂暴で、誰もその辺りの道を通れないほど暴れまわったのです。その彼らが、主イエスをみると、彼らは主イエスの本質を見抜き、恐れて叫んだのです。「神の子、かまわないでくれ」。イエスを神の子と知っていたのです。「まだその時ではないのにここに来て我々を苦しめるのか」と叫んだのです。彼らは、自分たちが世の終わりの時に滅ぼされるとわきまえていたのです。世の終わりの時を恐れていたのです。突然主イエスが現われたので、恐れ慌てているのです。

イエスを恐れ、滅ぼされたくなかった悪霊たちは「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願ったところ、イエスから「行け」と言われたので、出て行って豚の中に入りました。豚は崖を下って湖になだれ込み、死にました。悪霊をも支配される主イエスに信頼しよう。

2023年7月23日 礼拝説教要旨 水野 健 師

きょうどう-2023年 No.30  決して見捨てない愛     水野 健 師   

イザヤ書には、父なる神の愛が、激しい情愛の形で啓示されています。当時、イスラエルは北王国が滅ぼされ、南王国も危険な状況でした。人々は、神は我らを見捨てたと思いました。そのような中で、神は決してあなた方を捨てないと何度も叫んでいるのです。いくつかの例えで描かれています。

  • 妻を捨てない情愛としてイザヤ54章6節

「若い時の妻をどうして見捨てられようか。」

  • 乳飲み子をいとおしむお母さんの情愛で、イザヤ49章15節

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れてもこのわたしはあなたを忘れない。手のひらにあなたを刻んだ。」

  • 忘れないようにいつも見えるてのひらに、消えないように刻んだという

のです。その愛は人間とは違う永遠に変わらない愛であると説明されています。イザヤ54章8節「永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」

乳飲み子を捨てる母親はいません。しかし、現在、日本には子供の虐待があり、見捨てる親もいます。たとい、母親が乳飲み子を捨てるようなことがあったとしても、わたしは決してあなたを捨てないと主は言われています。

たとい、あなたが親から捨てられようが、人々から忘れられようが、大事な人から裏切られることがあっても主はあなたを大事な存在で、決して見捨てないと言っておられます。

新約聖書に移ると、私たちは世界の基の置かれる前から選ばれていた大切な存在であると説明されています。そして、神の子とするご計画に入れられていたというのです。現代人には見捨てられ感があると言われています。この神の愛の中に憩うことができるのです。